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これは自分もあらためて考えて気を付けようと思っていることなのだが、

何故人は自分だけが被害者になりたがるのか。

何故人は自分だけが、優しく、無垢である、と思うのか。

弱っているときこそ顕著にそれが浮き彫りになるのだが、優しさというものを過大評価しすぎているのではないか、と疑問に思うことがかなり多い。

優しい世界ってなんだよ、この世は地獄だし、死んでも地獄。みんな一人残らず地獄行きだよ、と思うことはかなりある。荒んでいるのではなく、この世は暴力ばかりだと思うことが山ほどある。自分のしたことが、していることが、優しさだと思ったことは一度もない。

優しさという「定型」を、これが今できる最適なのではないか、と考えて、実行している作業にすぎない。

自分がいい人だとは微塵も思わない。人からはいい人と言われているだけの総合評価なだけだ。しかもその票はごく一部の自分が関わった人だけの評価なだけであるし、もっと調査をすればその票はひっくり返るだろう。

優しさを押し付けるな、優しさを正当化するな、優しさを過大評価するな、優しさという概念を疑え、こればっかりが最近の思考の大部分である。


まあそうは言っても、自分は優しい人間だと、せめて自分だけは思っていたいでしょうね。でなきゃ押し潰されてしまいますよね。でもこの世は殴りあいでしかないんですよ。殴り返したいのにその前に殴られ、殴られ、しんどいからあえて抵抗せずに向こうの気がすむまで殴られ続けようとしてしまう人間もいるし、殴ることが優しさだとか思ってる人間もいるし、殴られ続けることが優しさだと思う人間もいるのがこの世ですよね。


人それぞれのキャパシティや器の材質、脆さ、強さ、それぞれが違うのに暴力だけは一定なのがとても残酷だなと思ってしまう。


何が正しいのか、よりも「正しさ」とはなんなのかがぐるぐると回る。


だから地獄だし楽しむしかないわな、とばかり考えてしまう。

道化のように笑い、愚かといわれるほどに滑稽でいつづけ、すべてのネガティブをギャグにすることでしか自分の身を保てなくなる。あらゆるすべてがポコチンであり、ところかまわずウンコが落ちている。だからアホな顔をして小便を撒き散らし、変な音を頭から出しながら、己のどうしようもなさを、吹き出すほどの悪臭とともに、笑いというゲボの海に沈めていくことでやりすごしていくしかないのではないか。


明日は麻婆茄子を作ろう。