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正しさというのはその場所その場所で様々である。自分を俯瞰して見てみるとつくづくそう思う。

世界というのも様々で、世界という言葉一つでとても広いイメージを持ってしまうが実は結構狭い。

ただ、その狭い世界がぎゅうぎゅうにひしめきあっており、そのなかで競争もあれば、共存もあり、放棄もあれば支配もある。

自分の置かれているところを中心に置いてみると世界は様々だ。こちらの世界では理不尽、支配を感じる、でもこちらの方の世界では自由を感じる、でもその自由さも実は支配があり、その上で成り立っていたりする。どちらが精神的に楽なのか、どちらが自分にとってより良いのか、それは正直自分にしかわからない。そもそも自分のなかで正しいのかどうかすらもよくわからない。

気楽だと思える世界にも苦しさがあったり、苦しいと思う世界にも安らぎがあったりする。

正しさや間違いというのは自分の尺度で計ったうえでの結果でしかない。己の尺度で計った正しさが違う人からしたら間違いだったりする。

世界というのはよくわからない。正しさや間違いもよくわからない。

その個人個人の判断、リーダーの判断、ルール、色々なものが混ざりあって世界ができあがっていく。


こうして見てみると本当に世界は疲れると思う。嫌だなと思うし、仕方ないとも思う。ある程度の世界が形成されてるおかげで楽になっている部分もあると思う。

とはいえ、人間ていうのはどういうわけか気に食わないことを箸でつまんでよく見てしまう。何故か気に食わないことを大事にしまっておきたがる。しかもそれをたまに取り出して気に食わない!と叫び気に食わなくなる。意味のないことをしていると思う。そんな気に食わないことを大事にしまいつづけてたら、気に食わないことしか見えてこないんじゃないのかと思うが、何故かそうなってしまうのが人だなと思う。

見つめるのではなく考えていかないといけないのではないかと自分は思うのだが、考えることというのも非常に体力を使うもので、疲れる。


世界についてもうひとつ、ここで面白いのが自分のなかで地獄と思える世界を体験したうえで、その世界から逃れることに成功し、別の世界に足を踏み入れたときに、その地獄だった世界での経験が活かされているところだ。

そんな地獄みたいなところなんていなくていい、と人によってはアドバイスする人もいるが、実はその地獄にいたことで今現在の自分が救われているというケースもあるということだ。最初っから地獄だからやめておけというアドバイスを組んで避けていた結果世界からつまはじきにされてしまうという危険性もあるということだ。

芸は身を助ける、何事も経験とはよく言ったもので、なんだかんだ自分の血肉になって結果的に得をすることもある。余計に世界がわからなくなってくる。


結局は自分がどうしたいかしかない。


カップ麺の天下一品食ったらあらゆる思考が消えた。血糖。


最近楽しいとはなんだろう、という状態になっている。そりゃこんなに仕事ばかりしてたらそうなるか。

なんだかんだ自分の中には歌うこと以外楽しいことないなと思う。

他者と関わらない限り成長はしていかないと言うが関わりかたを間違えてばかりしていた結果あらゆる人に迷惑をかけたり傷つけたり呆れられたり愛想尽かされたりしてきたので今はただただ自分の何が大事なのかを削ぎ落としていくしかない。削ぎ落としていくと歌うしかない。何もないので一人で歌って一人でけらけらしていくしかない。歌そのものになりたい。地べたに捨てられてぐずぐずになった歌そのものになりたい。